★★十八歳で成長が止まった釣り我喜親爺日誌(不定期)★★:昔の話
2008-09-24T08:13:57+09:00
tsurigaki
後一ヶ月
Excite Blog
想いでに火が・・
http://tsurigaki.exblog.jp/8659304/
2008-09-24T03:26:00+09:00
2008-09-24T08:13:57+09:00
2008-09-24T03:27:18+09:00
tsurigaki
昔の話
併し何処かで見た場所だ、若しかして高知の柏島?
綺麗な海、物凄く澄んだ水、カメラを引くと港の全景が・・此れは柏島に間違いないと思い乍最後まで見る羽目に・・最後に出たタイトルは「にほん夏紀行」「青い海に飛び込め」で画面の下に「高知・柏島」の文字が・・ヤッパリ記憶の中に有る柏島だった。「此処へは毎年正月に二十年近く通った」
此の柏島へ釣に行かなくなってモウ十数年になる、此の地を初めて訪れたのは釣りの雑誌でグレのメッカだと書かれていたので、一度竿を出して見たくて今から四十年程前にマップ片手に村の入り口の旅館を手がかりに飛び込んだ・・
当時は徳島の牟岐大島へは何度か釣行したが、余りグレが釣れないので、モット釣れる場所へ・・・此処柏島へ行くには神戸の青木埠頭「震災以降は大阪南港」「震災の前の夜の便で行こうと思ったが」から出る高知特急フェリーで高知港まで船に乗って高知から
四万十川下流の町、中村を経て宿毛へ此処から細い砂利道で古満月を経てクネクネ曲がった細い大堂海岸沿いの山道を走ると、時々猿が歓迎してくれてヤットの思いで宿毛湾が見える所迄出て坂道を下ると
柏島の渡しに・・此の渡しの小さな村「全部で数軒程」が渡船屋の一番多い所、此処から柏島へ渡る橋が映画、釣バカ日記や昨日の放送に出てくる絶好の場所、今はクネクネ道もトンネルが出来て橋も新しい橋に成った「新しい橋を作っていた時は知っている」らしいがトンネルが出来てからは一度も行った事が無い・・
毎年もう一度行きたくて・・三年前子供の頃の悪がきと一緒に行く心算だったが其のガキも突然あの世へ逝って仕舞ったので、行くチャンスが無くなった・・・此の柏島は各地を釣り歩いて一番居心地が良くロケーションも最高・・釣り場「磯」「離れ磯」も沢山有って、グレも沢山釣れる最高の地だったが
道が良くなると釣り人がワンサカ押し寄せてきて、阿波釣法「極細仕掛け」で釣るので魚がスレテ年々釣れなくなって私が最後に訪れた時は一匹も釣れずボーズで帰って来た、又此処は風の通り道で冬は猛烈な北風が吹き荒れ一週間程居ても磯に上がれるのはほんの僅か、南風は太平洋から直接吹くので・・
毎年正月になると行こうと思うが串本のグレが袖を引くので・・・夢は宇和の海の白兎が駆け巡る・・ オヤスミヤス
オマケ 昨日は私の隠し子の様子を八草峠を越えて見に行くと、大事に育てられてメタボ状態で寝ていいた。
100キロ近いオスでした。
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ハゼ釣り
http://tsurigaki.exblog.jp/8573066/
2008-09-06T06:02:00+09:00
2008-09-06T09:04:08+09:00
2008-09-06T06:03:30+09:00
tsurigaki
昔の話
私の従兄弟が自動車屋で働いていて、免許も持っていたので、ハイヤー代わりに一緒に行こうと誘うとポンコの車を探して来てくれたので、其の親父と悪友と五人で昔の電車の様な物凄いギャーの音がする車でお盆に出かけた。
其の家は小浜線の大藪と云う駅の近くで国道27号線に面した所だったが、我が家からは約70キロ程の所で国道8号を敦賀まで走り27号を小浜に向かって行ったが当時の国道は砂利道で道幅も狭く普通車が通るのがヤットだった。
ソンナ道を今にも分解しそうなポンコツ車に五人も乗って行ったのだから約三時間近く掛かって目的の家に辿り着いたのは午前十時過ぎ、初めて尋ねた家だったが、家の主は戦争未亡人でトテモ気楽な人だったので、
着くと直ぐ魚釣りに裏の久久子湖へ行きたいと云うと、スコップとバケツを両手に案内してくれた、湖に注ぐ小川で先ずエサのゴカイ取りから始まり、採れたてのゴカイを付けて釣ると大きな15センチ位のハゼが入れ食いでつれ
瞬く間にバケツ一杯に成ったがそれでもハゼが沢山見えるので釣ろうとするが昼近くになると食い気が無くなって釣れなくなって来た、其れでもハゼの目の前にエサを躍らすと、嫌そうに食いついたが、沢山釣れたので終了して
大漁の獲物を片手に家に戻るとお盆のお経を終えた坊主が休んでいたので我々も合流して暫く休んで居ると、昼食の用意が出来たので、釣って来たハゼのてんぷらも一緒に宴会が始まった・・坊主も旨い旨いと云いながら三方うなぎの蒲焼と一緒に結構酒を呑んで全員ゴロリと昼ねを・・・
魚屋の従兄弟の家と云えども我々初めて訪れた家なので少しは遠慮しても良いのだが、何故か親元にでも来た様な感覚だった。
その親父もあの世へ・・恐らくアノ親切で気楽な未亡人も・・・其れ以来再び尋ねる事は無かったが、
何故か昨日の様に鮮明に記憶に残ってる一コマです。其の時の運転手も50歳の若さで亡くなって仕舞った、残ったのは憎まれっ子三人・・この話は皆が忘れる事が無いと・・・ハゼの季節になると何故か甦って来る・・・ハゼの天ぷらが食べたいと・・オヤスミヤス
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ボチボチ始めます昔話。
http://tsurigaki.exblog.jp/6988106/
2007-12-24T02:47:00+09:00
2007-12-24T02:49:02+09:00
2007-12-24T02:47:32+09:00
tsurigaki
昔の話
其の貴重なラジオが我が家に有ったので大勢の人がラジオに聞き入ったが誰も終戦だと気付く大人が居なかった、尤も玉音放送も音質が悪く、電波も弱く雑音が入ったので聞き取りにくかった事も有るが、放送の内容を理解する人は誰も居なかった。
今思うと当時の大人はアホばかりだと思うが、放送が終り、夕方になって始めて戦争に負けて終ったと、モウ一軒のラジオの持ち主が言っていると聞いたのが昨日の様に克明に覚えている。
モウ一軒のラジオの持ち主は、東京から疎開してきた、近くの機械工業養成所の校長宅で其の校長が戦争が終ったと言ってると聞いて皆分かった位の程度のものばかり、尤も当時のメディァも嘘ばかり書いたり言ったりしていたから・・・
其れにしても無知な人ばかりいたもので今では想像も出来ない、その後広島に物凄い威力の新型爆弾が落とされたと聞き、其れが原子爆弾だと分かったのは一週間程経ってからでした。
何でも恐ろしい爆弾で再び人が住める様に成るには2~30年かかると聞いて小学二年の子供だった私でも恐ろしさを感じた、其の時の愛読書は兄が持っていた兵器図鑑で表紙がグリーンで当時の本としては可也立派な製本で飛行機や大砲・親子爆弾等の詳しい解説と綺麗な写真が
好きで何度も読み返したのでボロボロに成ってしまって今はない、親子爆弾は先端に小さなプロペラが付いていて投下されるとプロペラがクルクル回って大きな爆弾が分解して小さな爆弾が一杯出てくる写真は今でも・・・
敗戦して暫くすると小さなわが町にも進駐軍が見晴らしの良い湖岸の旅館を占拠して駐留、武器狩りを始めた、当然町内も一軒一軒数人の兵士が両側に分かれて調べて回ったが何も無いので、私の家の二・三軒手前で帰って行った。
土足で各家を回る進駐軍はトテモ怖かった、今思うと家庭に武器などある筈がない、軍人でも武器がない時に・・・2~30年は草木も生えぬと云われた広島に間もなく家が建ち人が住み始めたのは驚きだった、
その後校庭でグライダーを壊されるがトテモ悲しかった戦後の始まりです。 オヤスミヤス
*思い出した侭に綴るので多少の時間差と話が混乱しますが・・・
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